
社会課題の解決において、大きな可能性を秘める研究開発型(ディープテック)スタートアップ。その挑戦を資金面で支え、ともにイノベーションを創り出す人材を育成するべく、「慶應義塾イノベラボ」が発足した。
その中核をなすのが、事業や投資が社会や環境に及ぼす影響をアクションにつなげるための手法「インパクトマネジメント」。資金の支え手が積極的に研究者や起業家と連携し、社会課題の解決とともに新たな価値を創造する——未来を拓く思考と実践がそこにある。
この「慶應義塾イノベラボ」において、保険会社や金融機関などの投資対象者らがイノベーション・エコシステムの集積拠点を訪れ、スタートアップとの共同ワークに臨んだ。訪問先は、慶應義塾大学先端生命科学研究所や数々の研究開発型スタートアップなどが集まる山形県の「鶴岡サイエンスパーク」。
1泊2日の「イノベーションと出会う」「イノベーションを学ぶ」体験の模様を、前後編に分けてレポート。前編では、イノベーションが生まれる場をめぐって行われた見学と交流の模様をお届けする。
(2025年9月26〜27日、山形県・鶴岡サイエンスパークにて実施。敬称略にて構成。所属・職位は実施時のものです)
写真:菅原康太(フォトグラファー)
編集&文:深沢慶太(編集者)
[前回イノベサロン記事]
【開催レポート】慶應義塾イノベサロン #05「インパクトと持続的な事業成長」慶應SDM 白坂成功教授 × Impact Frontiers 須藤奈応氏
イノベーションの“資金の支え手”に向けたプログラム
研究開発型(ディープテック)スタートアップとともにイノベーションを共創する、新しい人材の育成を目指して開講した「慶應義塾イノベラボ」。機関投資家を主な対象として、社会課題解決を価値創造につなげる「インパクトマネジメント」の知見を共有し、研究者や起業家とともに未来を切り拓く“資金の支え手”を育てる取り組みです。
初の開催となる2025年度後期は、パイロット版(第0期)という位置付けのもと、アメリカの非営利団体Impact Frontiersの須藤奈応 ディレクター※1 を講師に迎え、保険会社や金融機関などの投資担当者らを対象にプログラムを実施。レクチャーやワークショップなどを通して、インパクトマネジメントの考え方を掘り下げていきました。

Impact Frontiersの須藤奈応ディレクター。鶴岡サイエンスパークのレクチャーホールにて。
なかでも特別な体験となったのが、研究機関やスタートアップ企業の集積によるイノベーション拠点「鶴岡サイエンスパーク」(山形県鶴岡市)を探訪し、実在するスタートアップとの共同ワークに取り組んだ「鶴岡セッション」。
「イノベーションと出会う」「イノベーションを学ぶ」の2本柱で実施された1泊2日の模様を、ダイジェストでレポートします。
※1 (参考記事)【開催レポート】慶應義塾イノベサロン #05「インパクトと持続的な事業成長」慶應SDM 白坂成功教授 × Impact Frontiers 須藤奈応氏
鶴岡サイエンスパークにて、イノベーションと出会う
鶴岡サイエンスパークは、山形県西部、日本海に面した庄内地方の中核をなす鶴岡市に立地。山形県・鶴岡市・慶應義塾による三者連携プロジェクトを母体として2001年、慶應義塾大学先端生命科学研究所(慶大先端研)の開設とともにその歴史をスタートさせました。

鶴岡サイエンスパーク(スイデンテラスより撮影)。左手にスパイバーの本社研究棟が見える。
慶大先端研は、生命科学と情報科学を融合した「統合システムバイオロジー」に取り組み、データ駆動型生命科学の最先端領域を開拓。さらに、その研究成果を事業化したスタートアップが続々と誕生し、鶴岡サイエンスパーク内に集積することで、地域密着型のイノベーション・エコシステムを形成しています。
慶大先端研発のスタートアップ第1号は、同研究所を象徴するメタボローム解析(代謝物網羅解析)技術を事業化し、上場を果たしたヒューマン・メタボローム・テクノロジーズ(2003年設立)。また、世界で初めてクモの糸の人工合成に成功し、人工タンパク質素材の製造開発を手がけるスパイバー(2007年設立)は、日本を代表するユニコーン企業として知られる存在です。

一般社団法人鶴岡サイエンスパーク(TSP)広報の髙橋春乃氏。慶大先端研をフィールドに、慶大大学院 政策・メディア研究科の先端生命科学プログラム修了後、同研究所発スタートアップのメタジェンを経て現職。今回のセッション実現を現地で支えた功労者でもある。
鶴岡サイエンスパーク内に開設されたインキュベーション施設、鶴岡市先端研究産業支援センターには、慶大先端研発のスタートアップ9社を含め、高度な研究・教育機関が拠点を設置。さらなる活性化に向け、ユニークかつ多面的な取り組みが打ち出されています。
例えば、企業が社員を派遣して自由な研究活動を行う慶大先端研の「革新的人材育成プロジェクト」には、損保ジャパンや明治安田生命、三井住友信託銀行、資生堂など累計9社が参加。イノベーション人材の育成・教育に関しては、慶大先端研が慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス(SFC)の学生・大学院生向けに展開する滞在型の先端生命科学プログラムに加え、鶴岡サイエンスパークを舞台に開催される「高校生バイオサミット in 鶴岡」のほか、地元高校の生徒を研究助手や特別研究生として受け入れる制度も。この地で薫陶を受けたOBOGが、施設内の研究機関やスタートアップ企業に就職する流れにも結び付いています。

SHONAI HOTEL SUIDEN TERRASSE(スイデンテラス)外観。
さらに、同地で設立のSHONAI(旧ヤマガタデザイン)は、施設の一角を占める田園風景の中にSHONAI HOTEL SUIDEN TERRASSE(スイデンテラス)を18年にオープン。「建築界のノーベル賞」ことプリツカー賞を受賞した建築家・坂茂(ばん・しげる)による設計をはじめ、地域の景観美や食文化などを象徴する“水田に浮かぶホテル”として全国的な話題を呼び、鶴岡サイエンスパークにとってさらなる起爆剤の役割を果たしています。
現在の従業者数はTSP全体で約580人、国内外から若者世代の転入を促進し、経済波及効果は年間40億円超に達します。産業の高度化や地域企業との連携による雇用創出、地域活性化に大きな貢献を果たしてきた拠点を実際に訪れ、その環境や人々の想い、ビジョンを肌で感じること。「鶴岡セッション」の掲げる目的の一つ、「イノベーションと出会う」体験が、そこには広がっていました。
【講義】冨田勝 TSP代表理事「脱・優等生がつくる日本の未来」
こうした発展の立役者が、TSPの代表理事を務める冨田勝 慶應義塾大学名誉教授です。人工知能研究から生命科学へ転じて、メタボローム解析など新領域を開拓。慶應義塾大学環境情報学部長を経て慶大先端研の初代所長に就任後も、同研究所発の第1号としてヒューマン・メタボローム・テクノロジーズを創業し、スパイバーの社外取締役をはじめ、計10社に及ぶスタートアップの設立や創業支援に携わってきました。
たゆまぬ活動に込めた想い、イノベーションに重要な精神とは。施設内のレクチャーホールで行われた講義から、印象的な言葉を抜粋します。

「この場所は、元は一面の田んぼでした。2001年の開設当時は慶大先端研の建物が1棟、スタッフも十数名きり。所長として、何をすればいいかを考えるところからすべてが始まりました。今や鶴岡発スタートアップの代表格として名を馳せるスパイバーの代表、関山和秀さんも、創業当時は大学院生。ふとしたきっかけでクモの糸の強度の高さに着目し、その遺伝子を微生物に組み込むことで糸を合成できないかと考えたのですが、『NASAやアメリカ軍が失敗したのに、できるわけがない』と笑われました。でも私は背中を押した。人と違うことをする、その勇気からしかイノベーションは生まれないからです」
「鶴岡サイエンスパークでは『普通は0点』を合言葉にしています。人と違うことをやる以上、失敗は付き物。でも誰かがやらなければ、社会は決して進歩しない。スイデンテラスを運営するSHONAIの代表、山中大介さんはスパイバー出身。『田んぼを見晴らすホテルを作りたい』という言葉に、調査会社からも地元からも『この場所にホテルビジネスは成立しない』という声が相次ぎました。そうした“優等生的な常識”をスルーした結果、今や年間6万人が訪れる人気の場所になった。誰もが『いいね』と言うアイデアは、もう誰かがやっている。非常識のなかにこそ、新しさがあると知るべきです」
「研究者が起業してもうまくいかないと言われますが、逆にこだわりがあるから続けられる。利益より面白さ、夢中は努力に勝る。この場所には、夢中になっている人がたくさんいる。そのエネルギーの集積が人を動かし、未来を変えてきたと感じます」
講義後の質疑応答では、参加者から「夢中の見つけ方」や「他人と違う才能を伸ばす方法」について質問の声が。冨田氏の回答は、「夢中になれるものを見つけるのは簡単ではない。だからこそ、何かに夢中になっている人を止めないでほしい」「誰もが他人と違うことをやる必要はない。社会を支える大多数の人が、自分と違うことをやる人のことを『無理だ』と言って馬鹿にせず、喝采を送る文化が根付いてほしい」

鶴岡サイエンスパークを象徴する設備、メタボローム解析のための装置が並ぶ世界最大規模の「メタボローム解析機器室」。
その後、鶴岡サイエンスパーク敷地内を巡る見学ツアーも実施されました。
慶大先端研および同パークの研究と事業展開に極めて重要な役割を果たしている設備が、全50セットのメタボローム解析装置が並ぶ世界最大規模の「メタボローム解析機器室」。冨田氏が開発・確立したメタボローム解析は、生体や微生物の代謝物質を短時間で網羅的に計測・分析する革新的な方法で、キャピラリー電気泳動(CE)と時間飛行型質量分析計(TOFMS)の測定値をコンピューターで解析。慶大先端研発の手法としてこの地で国際学会も開催され、がんをはじめとする病気による代謝バランス変化の解明に寄与するほか、山形県産ワインや在来野菜「だだちゃ豆」などの成分分析を通じて、地域の商品開発にも貢献しています。

鶴岡サイエンスパーク内、メタジェンセラピューティクスが開設した「つるおか献便ルーム」。
もう一つ、鶴岡サイエンスパークの新たな象徴といえるのが、今年4月に完成したばかりの「つるおか献便ルーム」。開設したのは、本記事の後編で紹介する「イノベーションを学ぶ」プログラム協力スタートアップの1社、メタジェンのグループ企業であるメタジェンセラピューティクス。献血ならぬ「献便」としてドナーの便から抽出された腸内細菌を、潰瘍性大腸炎など難治性疾患の医薬品原材料として活用するための施設です。庄内地方に在住し、適格性検査を通過したドナーは専用トイレで便を提供。1回あたり最大5千円の献便協力金が支払われ、ドナー活動を通じて自身の健康意識向上にもつながる仕組みです。新設された「つるおか献便ルーム」は、“世界一来たくなるトイレ”をイメージしてデザインされています。
イノベーション精神を育む対話の場「人語(じんかた)」
鶴岡を訪問して行われた「イノベーションと出会う」体験の数々。そのなかで最もユニークなプログラムといえるのが、1日目の締めくくりに実施された「人語(じんかた/人生を語る会)」です。「人語」とは、冨田氏が30年以上にわたり鶴岡サイエンスパークの内外で実施してきた交流会の名称。この日は同パークのラウンジコーナーにて、「イノベラボ」参加メンバーや運営関係者、「イノベーションを学ぶ」プログラム協力スタートアップの代表を交え、組織や立場の垣根を超えた対話が繰り広げられました。

「人語」にて。この地のイノベーション精神の火付け役・冨田勝 TSP代表理事(中)と、その魂を受け継ぐメタジェンの福田真嗣代表取締役社長CEO(左)、MOLCUREの玉木聡志CEO兼CSO(右)。両社は「イノベーションを学ぶ」プログラムの協力社でもある。
冨田氏からは、「鶴岡のシンボルでもある月山(がっさん)は、日本有数の山岳信仰の聖地・出羽三山(でわさんざん)の主峰。山伏などの修行者に限らず、江戸から人々がはるばる訪れるなど、古くより生きる意味を問う精神文化が根付いてきた。その問いは、先端科学とも結び付くところがある」という話に始まり、「インパクト投資は“社会の幸せ”を追求する。だとすれば、自分にとって幸せとは何か。それがわからなければ社会の幸せを語ることはできない」「金融の仕事は誰を幸せにしているのかを考えてほしい」といった鋭い追求も飛び出しました。
“何のため、誰のためにやるのか” というイノベーション精神、さらにはインパクトマネジメントの根幹をなす問いかけが、それぞれの使命感やモチベーションを大いに揺り動かした「人語」の時間。そして、独自のイノベーション・エコシステムを育む現場を身をもって体験し、その熱気や精神に触れるべく行われた「イノベーションと出会う」プログラム。参加者たちはこの場を通して何を感じ、どのような気づきを得たのでしょうか。
後編記事では、「鶴岡セッション」のもう1本の柱である「イノベーションを学ぶ」プログラムに焦点を当てていきます。

夕暮れの光に佇むSHONAI HOTEL SUIDEN TERRASSE(スイデンテラス)。
[後編記事]
【開催レポート】慶應義塾イノベラボ第0期@鶴岡サイエンスパーク(後編)「イノベーションを学ぶ」
※本事業は、慶應義塾大学の研究大学としてのビジョンである「未来のコモンセンスをつくる研究大学」の実現に向け、日本学術振興会「地域中核・特色ある研究大学強化促進事業(J-PEAKS)」に採択された取り組みの一環として実施されています。
※本事業は、特定の企業に対する投資を推奨するものではなく、また法的責任を負うものではありません。